パリ上陸作戦

「パリ上陸作戦と欧州フランス事務所生活」という題で、フランス勤務開始3年目に、日本弁理士会「パテント」に投稿した記事を少し加筆修正して以下に記します。

はじめに

 欧州の特許、知財に関心を持っていたところ、きっかけがあってフランス・パリの特許事務所に転職してきました。産業のグローバル化が進み、日本にとって海外の知財がますます重要になる中で、私個人としては、ここ欧州・フランスで日本の前線基地でありたいとの思いで仕事しています。また、パリの華やかなイメージとは裏腹に、生活の確立にはそれなりの苦労もありました。

 世界市場の3割を占める欧州、その中で存在感あるフランス、そして、パリ。仕事と生活の一端から、ともに親しみを持っていただけたら嬉しく思います。

1.欧州をめざせ

それは東京・神田の寿司屋から始まった。

時折舞い込むヘッドハントにどう対応したものか、今後の進路相談、キャリアの積み方も含めて、米国勤務経験の豊富な先輩の弁理士に相談していた。妻も同席。

特許の世界に入ってから、数多くの海外出願を担当していたが、十分な活用に至っているとは到底思えない。米国・欧州・中国、それぞれに対して、権利行使の必要性、技術移転の必要性を感じていた。

自身のキャリアを振り返っても、欧米との仕事で出張したこと、旅行したことはあるが、現地に長期間住んで留学や勤務した経験はない。地球に生まれたからには一度海外での仕事、海外での生活をやってみたかった。

ひとしきり、進路相談を終えたあと、私「そういえば、今の職場の欧州事務所はパリにあって、フランスでも行けたらいいんですけどねー」。先輩弁理士「欧州、フランスと言えばいい事務所を知っているよ、事務所の100周年記念パーティにオルセー美術館を貸し切ってやった面白いところでね、、名前が思い出せないな、、思い出したらメールしますね。」 

 翌朝メールで事務所名をいただき、検索してホームページを発見、話題の流れから英語ページのJob Offerを見るも何もない。夕方、もう一度フランス語のページのRecrutementを見ると英語版と異なる募集が複数。そして、その中に「Japonais」の文字があるではないか。これは確かJapaneseのフランス語だ。フランス語のテキストをコピーして英語に自動翻訳してみるとどうも「日本語ができる技術者募集、望ましくは弁理士」とある。こ、これは!

 帰宅して、履歴書と志望動機書を早速練り上げはじめた。台所のノートPCを広げ、Word上で表示200%に拡大しつつ、妻と一言一句、英文の表現をチェックしながら作成した。まだ子供もいない。九州の実家の母も定年前でまだまだ健在。人生の今の時期がチャンスに違いない。

欧州の審査官の質が高いことを理解していた。特に調査能力の高さには定評がある。

複雑なシステムながら、しっかり運営されている欧州特許、また各国裁判の特色もあると聞いていたし、日本からの技術移転の成功事例も欧州に多くあった。

欧州なら英国・ドイツなどある程度どこでもよい、と漠然と思っていたところ、目の前に現れたフランス。華やかな「おフランス」は自分に合わないが、花の都と言われるパリ。面白いかもしれない。

昔、出張の帰り、イタリアから日本へ戻るトランジットで1時間半だけパリ市内に立ち寄った際、街並みの壁の白さがまばゆかったのを覚えている。

サッカーの世界では欧州には世界最強リーグがひしめく。フランスと言えば、ジダンのプレーが好きだった。

欧州へ行こう!と応募書類一式を送った。

2.面接へ

翌週、電話面接をしてくれることになった。後から聞いたが、事務所側としては、「日本語のできるフランス在住のフランス人」を想定していたので英語ページではなく、フランス語ページのみを用意していたが、まさか日本から日本人が、(しかもフランス語のできない日本人が)応募してくるとは想定外だったようだ。

クリアな英語による電話面接にほっとした。電話の最後に、驚きのオファーが。「それでは、こちらで航空券と宿を手配するのでパートナーと面接にどうぞ」と。なんと一週間、妻ともどもパリに行くことになった。

7月から通常夏休みを取れる職場ながら、おそるおそる、不自然にも6月最後の1週間の休暇を取った。休暇中の申し送り事項を整理し、明朝の成田空港発のフライトに備えた出発前日、金曜日の午後。なんだか身体の調子がおかしい。明らかに発熱、職場の医務室に行って測るとなんと体温39.7度。こういう人生の節目において、神様は試練を与えるものだ。病院に行き事情を説明、点滴を受け、一日一錠だけしか飲んではならぬと厳命付きの解熱剤をもらい、パリへ飛び立った。

せっかくのパリ来訪も熱と疲労のため、景色がよどんで見えた。2日後の面接までホテルで回復に向けてじっとするしかない。妻が買ってきたサンドイッチを食べ、水を多く摂取してひたすら休んだ。解熱剤を投入して体温が37度台になるときがあるものの、すぐ39度台に戻る。当日は、面接時刻を見計らって解熱剤を投入し、事務所に向かった。面接の部屋には自分だけが向かい、妻は受付で待つこととなった。

三名の役員(パートナー)と対面。開口一番、「フランス語はできる?」「できません。」「じゃ英語で行こう。」となった。

面接で無我夢中で話したが、実際内容をあまり覚えていない。自己紹介と志望動機が大事だ、という昔からの面接マニュアルの原則に沿いつつ答えたのは確かだ。

妻も面接後半で呼ばれた。日本を離れフランス生活を始める意志はあるか、仕事はどうするか、大丈夫か、確認したかったようだ。翌々日の給与などの条件交渉の場でも妻が同席した。条件交渉の面接がある、ということは、その時点で採用自身は内定していたようだ。

あとから思えば、事務所としては新しいことを立ち上げるため、エンジニアとしてのプロジェクトマネジメント経験、あと、商社の経験が評価されたのかもしれない。

パリでほとんど観光をできないまま、日本に戻り、契約書の到着を待つ夏となった。

 日本のお盆前、フランスのバカンス前に細かい条件調整の電話会議を経て、事務所側のサインが入った契約書が到着、2部の契約書全ページにサインをして、一部を返送。パリでの到着を確認。これで、晴れて契約完了だ。

 多くの弁理士仲間をはじめ、これまでお世話になった方々、先輩・友人・親類。三十年以上に渡る日本でお世話になった全ての方にご挨拶をするのは大変だと初めて知った。多くの送別会もしていただいた。弁理士合格時の祝賀会より多かった。同期弁理士の一人が、「たまにはサシで飲みましょ」と二人で居酒屋に行って、個室のドアを開けたら、ひそかに多くの弁理士仲間が密かに待ち構えており、クラッカーを鳴らして盛大な送別会をしてくれたのには感涙した。

 渡航準備を開始し、ビザの手続きに初めて外国での生活を肌身に感じた。約3ヶ月待ったのち、日本側の手続に初めて東京・麻布にある在日フランス大使館に行った。大使館というと華やかな社交場のような場所を想像していたが、この想像とはほど遠く、厳重なセキュリティを通り抜けた後は、殺風景なコンクリートむき出しの待合室。受付は透明・頑丈そうなガラス板に穴が開いており、そこを通じて愛想の少ないフランス外務省の職員と話す。待っている間は列に立って並ばなければならない。その間15分の時もあるが1時間の時も。一度書類を揃えるものの、不足分による再提出のため再度訪問、列に並んだ。さらに自分の場合、諸条件が整わず、異なるタイプのビザを申請し直すこととなり、3ヶ月待った後、再手続きすることに。連絡がこないため途中でプッシュするためだけの訪問も含めて、結局6回大使館に通うこととなった。でもこれは、その後迎えるフランスでの各種手続のよい練習台となった。

3.パリ上陸!

何とか年始に渡航を間に合わせたい、という思いがフランス政府にも通じたか、計4ヶ月半待って12月下旬にビザが発給され、年の瀬に引越し準備をすませた。船便用の荷物は3ヶ月後に到着する。トランク2つに3ヶ月過ごせる資材を詰め込んだ。

 成田で初日の出を見て、出発。機内も空いていたのを覚えている。シャルルドゴール空港から、バスでパリ市内に向かい、到着したそこは凱旋門であった。

 マイナス12℃の中、契約していた短期滞在用の仮宿に向かうが、事前に教えられた住所が違っていた。電話しようとしてもまだ携帯電話がない。公衆電話のコインもない。カードも使えない。元日なのでお店も開いていない。身体が凍りつく。一件だけ開いていたパン屋のお姉さんに電話を貸して欲しいと頼むも断られた。パン屋のお客だったおじさんが親切にも家に携帯電話を取りに戻って貸してくれた。さらに道行く日本人にも携帯電話を借りて、住所とドアコードを教えてもらい、やっとたどりついた。厳寒のパリの街から暖かいアパートに入ることができ、大家さんにもらった熱く濃いフレンチコーヒーは忘れられない。

なんとか、22m2の仮宿で生活を始めた。

渡航用のビザはあっても、滞在許可証を取得しないと不法滞在となる。パリ中心部の警察署に4度足を運びなんとか受理された。受理証を元に、銀行口座開設、そして、念願の携帯電話を確保するに至った。あらゆる手続きに多くの文書が必要である中、事務所との労働契約書が重要な命綱であった。一歩外に出るとフランス語の世界であるが事務所の中では、有難い事に英語が通じる。職場はこの欧州での冒険を過ごすためのシェルターに感じた。

仮宿の期限は2ヶ月、住まい探しを開始するが、日本とまったく異なる事情に遭遇する。パリ市内の不動産屋に赴いて、二部屋で、そう古くないもの等、一般的な条件を提示しても、空き物件がないか、あっても1件。空き物件がそもそも無いのだ。よい物件が出るとすぐ契約されてしまうため、即断が必要である。一度よさそうな物件を逃した事もあった。最後は平日の仕事時間、妻が不動産屋を回り、良い物件を見つけるとその場で電話を受け30分で飛んで行き、即申し込み手続をして確保した。賃貸契約には、多くの文書が必要であったが、フランス語を習い始めた妻が必要書類を解読、事務所同僚のサポートを得つつ、1ヶ月半の時点で何とか入居契約を締結した。

4. 事務所での生活

 ボンジュール! 個室が並ぶオフィスだが、朝の挨拶にはじまり、所内の仲間の挨拶は頻繁だ。

弁理士は通常個室での勤務、各弁理士にアシスタントが付き、個室近くにいて期日管理・レターフォーマットの作成等を行ってくれる。個室のドアを開けたまま仕事している場合が多く、コミュニケーションしづらい雰囲気はない。集中したい時はドアを閉じることもでき、メリハリを付けられる。

 英語でも仏語でも所内では短いメールが飛び交う。あと日本の企業より電話を多用するように感じる。タイムチャージの世界のせいかもしれないが、あらゆる調整・検討時間が短いように感じる。会議も1時間を超えたものを見た事がほとんどない。文書のドラフト作成、レビュー等も手順が少ないと感じる。

 仕事を通じて、メールでも口頭でも多くの色んな質問をするが、明快、簡潔な答えに驚く場合が多い。一方、こちらの質問が不明瞭な場合にはすぐ逆質問が来る。理解力と説明力、コミュニケーション能力の高い人間が多いように感じられた。

 事務所職員のうち、フランス人は8割程度で、2割はフランス外部、英国・ドイツ・米国・韓国・中国・ブラジル・インド等を含む多くの国から来ている。

 所内の同僚は、その多くが欧州弁理士・フランス弁理士の両方の資格を持っている。

 日本で弁理士が2011年末現在、9,000人を超えているが、フランス全体でフランス弁理士の数は800人程度である。なお、企業所属の弁理士資格保有者は同数程度いるが、弁理士として登録できない。

格差社会のフランスの中で、弁理士はかなり上位層に属するように感じる。グランゼコール出身者も多い。技術と法律の両方を理解しなくてはならない弁理士になるには、事務所実務経験3年を受験資格に要するなど一定のハードルがあるようだ。

多くの所内弁理士と少しずつ知り合いになった。ランチタイムは通常1時間~1時間半。栄養を取る、というよりはコミュニケーションの場として位置づけられているようだ。

昼食時、フランス人は毎日ワイン、ということはない。

同僚との食事を社員食堂、または近くのレストランでとる。ワイン等を楽しむのは顧客と一緒の時と、あとたまに休暇前に限られる。社員食堂があるのは助かる。自分でプレートに載せると一応前菜・メイン・デザートのコース形式になり、会社負担5ユーロ、自己負担5ユーロ位だ。また、多くのフランス企業が採用しているレストランチケットというものが月に10枚支給されており、例えば15ユーロのランチメニューをレストランで注文した場合、8ユーロのチケットを使って残り7ユーロを自分で払う。東京都心などでも普及しつつあるそうだが、日本全体でもっと普及してよいシステムだと感じる。

 仕事を始めた当初、オフィス・ファッションが多彩であることにも目を奪われた。女性も男性も、色の使い方がバラエティに富んでいる。日本なら職場でちょっと浮いてしまいそうな色、例えば男性のシャツなら鮮やかなブルー、黒、紫、などを着こなしている。女性も多くのバリエーションがあるが、ブランド物をさりげなく身につける、とはこのことかと分かる。年配の方にもお洒落な方が多いのはいいことだと思う。

5.仕事

 初仕事は、鑑定業務であった。欧州に拠点を多く持つフランス企業が、世界市場で投入する商品の開発方針を定めるに当たり、日本企業の特許群を分析する、という。グローバル企業が特許網をかいくぐって新製品を開発するに当たり、日本の特許は無視できない存在であることを感じた。ただ、同僚曰く、日本の特許群は「静かな武器庫」と評される場合があるそうだ。高性能な武器をたくさん持っているが、なぜかなかなか撃ってこない。欧州企業が相手の特許を無効にしたい場合に、この武器庫にある特許を引っ張りだすと抜群の威力を発揮する。その場合、日本語で日本特許を検索する事は有効な手段でもある。

一方、権利保有者として日本企業が市場で目を光らせていないと、日本の特許文献が海外のライバル企業への単なる都合のよい技術提供の媒体になりかねない。

 自分の仕事のコアを占めるのは欧州特許の権利化の仕事だ。日本企業のために仕事をするのは、大和魂が燃える。出願を受け取るとき、技術の魂が届いたような気になる。

 日本国弁理士の資格ではサインすることができないが、自分が出願・拒絶理由対応などドラフトを仕上げ、欧州特許弁理士の確認を経て、その欧州特許弁理士の名前で欧州特許庁(EPO)に電子申請される。

 拒絶理由に疑義がある場合など、EPO審査官と非公式な電話会議も行われる。EPO審査官にもミスがある。時折その指摘をすることで相互に無駄な手順を回避することもできる。

 イギリス・ドイツへの出張がしばしばある。同僚はギリシア、スイス、東欧、北欧、多くの国にまたがり仕事を行っている。どの国も飛行機で2時間以内に到着する。日本国内出張と変わらない感覚で他国にいけるのは有難い。

 EPOでの口頭審理にも時折出張する。特許付与後の異議申立の他、審査の最終段階での審査官と出願人との間の口頭審理も増えているようだ。基本的には審査官との誤解が元であり、電話とメールを非公式に交わして合意し、口頭審理を開かずに済ませる場合も多い。最近はテレビ電話会議による口頭審理もある。論点が残り合意に至らない場合は口頭審理が開かれる。16時半まで仕事をしてパリ空港に向かい、20時にはEPOドイツ・ミュンヘンのホテルに到着、そこから同僚の部屋で翌日の審理に向けた対策会議を夜中まで行う。頭が完全にその案件でぎっしりになって翌朝を迎える。

 出願審査に対する口頭審理では3人の審査官と会議室で対面し、論点を一つずつ確認しながら進める。明瞭性について議論を一定時間行った後、「それでは休憩をどうぞ」と廊下で代理人陣が待つ間、会議室では審査官達が協議をする。10分程度のちに部屋に招かれ、「明瞭性は、協議の結果、、、、、、、、認められました。」とドキドキさせられながら、次の論点、進歩性などに進む。請求項も議論の進み方に応じて補助案の請求項を複数用意しておくのが普通だ。最後は会議室内にて手書きで作成した請求項でお互い合意することもある。

 欧州での仕事の醍醐味の一つは、複数の国を跨る訴訟の仕事だ。権利化の手続きは欧州特許の存在でかなり統一が進む一方、権利化後の特許訴訟は各国毎に独立して行われるため、作戦を立てて行う必要がある。 

 市場が大きいフランスであるが、Seizureと呼ばれる簡便で強力な証拠保全の制度があり、ここで取った欧州内の輸送伝票、技術書類などを証拠にして各国裁判を並行して進めるのは一つの常套手段である。証拠品を取るために、朝一番から同僚がスーツケース・またはレンタカーにて本社・工場・倉庫などに「ガサ入れ」に向かうこともしばしばで、そういう時は事務所の一部のエリアの弁理士陣が丸ごと不在だったりする。「朝9時から夜11時まで倉庫での証拠確保を土日も続けて3日連続だったのよ」と嘆く女性弁理士も同僚にいる。

 日本との窓口として、商標・意匠案件も取り扱う。欧州の中でもブランド企業がひしめくフランスは商標登録が最も混み合っている国でもある。出願前調査、侵害調査とも緻密な判断を要する。

  特許調査の案件も多いが、模倣品対策や知的財産の価値評価、ライセンス契約の窓口も担当する。日本人として勤務しているからこそ幅広い案件に触れる事ができ有難いと思う。

年に数回、それぞれ2-3週間、日本への出張がある。欧州・フランスの知財に関して講演する機会もあり、また、普段書面・メールのみでやり取りをする取引先と顔を合わせて打合せをするのも大事なミッションだ。

6.職場を離れて

基本的に、仕事後にいわゆる職場の付き合い、飲み会はない。

ただし、夏と冬の休暇前にサマーパーティ・クリスマスパーティや、弁理士合格のお祝い会、送別会などが催される。16人の欧州弁理士合格が出た年は、各自が5本ずつシャンパンを用意しお祝い会が会議室で催されたが、80本のシャンパンが並ぶ様子は壮観であった。フランス生活初心者の自分は日本のビールのように注ぎ・注がれて気持ちよく飲んでいたら、帰りがけバスで眠って乗り過ごし、真っ暗な終点、高速道路のそばでタクシーを待つことになった。後日同僚に大いに笑い者にされた。

仕事後の職場の付き合いはない一方、時折休日にホームパーティに呼ばれる事がある。外食が高いパリでこの習慣は良いと思う。家族ぐるみの付き合いも自然と多くなる。

職場を離れるとそこは基本的にフランス語の世界。

職場の支援もあって、初めてのフランス語講座に通い始めたが、初心者レベルから授業の説明がすべてフランス語、教科書も全部フランス語。全ての単語が分からない。辞書を引くだけで目が回った。でも少しずつ分かってくるもので、レストランの注文と買い物から慣れてきた。

パリのお店はかなり英語が通じる。買い物は何とかなっても、役所の窓口対応は基本的にフランス語であり、かつサービスは基本的に愛想が少なく親切でない印象がある。たまに優しい方、親切にも英語を話してくれるのは本当に助かる。

 しかし、少し生活に慣れたところで、またパリ生活の大変さに遭遇する。ビジネスバッグを盗まれた。場所はエッフェル塔の間近の公園、夜になると1時間毎にダイヤモンドのように輝くエッフェル塔で語学学校の仲間とピクニック(という名の宴会)をしていた時、輝くエッフェル塔に、少しだけ目を離した隙に気がつくとビジネスバッグがなくなっていた。

 あの何度も役所に通って手に入れた滞在許可証をはじめ、パスポート・銀行カード類が丸ごとなくなった。日本で調達したパソコンと身に着けていた携帯電話が取られなかったのは救いであったが、実家の母が壮行にくれた名刺入れ、家族の記念写真など思い出の品々がなくなったのが心に痛い。もう一度全てのIDカードを取り直す作業も苦痛でしかなかった。犯人はその公園を徘徊していた土産物と飲み物売りの人間と推定している。国境がなくなりつつある欧州、パリには各国の失業者が欧州中から集まってしまう。欧州統一の別の側面を感じた。

7.育児と休暇

 1年少々経って、初の男子を授かった。パリの病院で出産に立ち会った。フランスでの出産では、麻酔を用いた無痛分娩が主流である。日本でも環境が整ってもっと流行れば良いと思う。痛みがない安心感から、懸案の出生率もきっと少しだけ上がると信じる。

 息子には世界を駆ける強い人間になって欲しいとの思いも込め、百獣の王ライオンの意味を持つ、レオンというセカンドネームをつけた。

 出生率が約2.0と高いフランスだが、女性の社会進出も進んでいることを感じる。事務所では弁理士等の専門職、上級の管理職も女性が男性とほぼ同数を占める。フランス企業に訪問して管理職が女性であることが多いと感じるし、また、パリの裁判所で裁判官・裁判官補・書記官、そして原告弁護士が全て女性だった場面もあった。

2人、3人以上の子供を持つ女性同僚も多くいる。

フランスでも全ての人に公立保育園が提供されるわけではなく、自分も1年半待ちであった。私立保育園・ベビーシッターを補助的に利用している人も多い。勤務時間を朝早くから夕方までにしたり、自宅での作業日を設けたりするなど工夫している女性同僚もいる。

出産補助、産休・育児休暇、保育園整備などの支援制度があるが、自分個人の所感では、日本も最近かなり整いつつあり、制度面での違いは少ないと感じる。日本との違いは意識と周囲の理解かもしれないと思う。

年間に合計25営業日(5週間)の休暇と、加えて11日(月に一日)の別種の休暇、合計36日の休暇が与えられる。休暇の消化率が高いのが欧州企業の特徴だ。

特許事務所の場合、夏を挟む5月から9月のどこかに3週分休暇を取り、残り2週分を1週ずつ年末年始や、その他の季節に分けて取るのが基本形だ。5週や6週まとめて取るのは、7月・8月以外の休暇がとりにくい教師等の場合のようだ。

 この長い休暇を職場で支えるのは相互サポート制度である。休暇の間、弁理士間やアシスタント間で交代を頼み、この頼まれた人が1日2度程度PCを見て、緊急案件の有無を見分けて対応する。従い、休暇シーズンに事務所に残る人間はどことなく忙しそうである。欧州全体が休暇モードなので何とかクリアできる。

 自分の場合、日本語のメール対応を代替できる人間は限られている。当初「軽く旅行先でもチェックしますよ」と引き受けたはいいが、休暇先ホテルで仕事に追われたこともあった。その後は、同僚の日本チーム内でうまく調整している。

 とはいえ、自分自身はこれまでのところまだ3週連続の休暇を取る勇気がない。日本関係で何かあったら、とよぎることと、長期間の休暇をどう使うか、まだイメージができないためだ。

 週末に休暇を足して、欧州内を小旅行するのが気に入っている。特に格安航空券を用いると一人往復60ユーロ位からあり、お得感がある。

8.そして日本のために

 「仙台震度7」。携帯で見たニュースに飛び起きた。大震災。春の日本行きの出張を準備していた時期だった。前の晩は仙台からパリに出張に来た友人と我が家で夕食を楽しんでいた。彼の仙台の家族は大丈夫か。東北地方の他の友人達にもメールを送った。テレビは3日間、24時間ずっと日本の震災のニュースだった。パソコン3台、携帯、テレビあらゆる画面を立ち上げ、時々刻々と変わる情報を追った。

 日本が震災から復興する過程の中でも、知的財産が貢献できることが必ずあると信じる。

技術の進歩が地球上を光の速さで駆け巡る時代である。欧州を含む海外における知的財産の重要性が高まっているのも間違いない。

 日本の経済力、国力があって、ここ欧州・フランスでの自分がある。「和僑」という言葉もある。

ここで日本のためになる存在であり続けたいと常に思う。

 欧州・フランスに来てもう3年が経った。朝起きると、時差のため既に日本では午後であり、スマートフォンには日本から多くのメールがたまっている。通勤中のバスでも、朝のカフェでもオフィスでの優先順位付けをする。なじみのカフェで朝からクロワッサンとエスプレッソで朝食をとり、親しい店の主人と少しフランス語で挨拶を交わすと、自分もパリジャンの片割れかなという錯覚を味わう。

 家族とは、この大いなる冒険の仲間になったような気がする。家はこの冒険のもう一つのシェルターだ。今日は仕事を早めに切り上げて、最近始めた市の空手クラブで一汗流した。帰宅して、フランス産炭酸水ペリエをプシュっと空けて「いやー、初めはどうなるかと思ったけど、仕事も慣れてきたし、生活も落ち着いてきたし、よかったよかった。」と機嫌よく語ると、妻が言った。

「で、いつあの神田の寿司屋にまた行けるの?」

「もう少しユーロが復活してからがいいかなぁ。」

給与はユーロ建て、契約時170円だったユーロは100円になっていた。

まだまだ冒険は続きそうである。

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